きれ端ノート

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感想と語彙力のあいだにある、関係性の話【おさわり】

拝啓みなさま、お疲れさまです。

なかなか寒くなりませんね。冬の冷たく乾燥した空気から感じる、ある種の厳しさ。雪が降った日の静けさ。ピリッとした気配に背筋が伸びる思いがして、四季の中で一番好きなのが冬です。
冬が来ないとわたしは年中、だらんと気を緩ませて伸び切っている。少しでも人と同じように、まじめな顔で前を見つめていたい。それができる(かもしれない)、冬。

わたしにとって冬は、そんな貴重な季節です。

普段はあんまり喋らないのですが、こうやって文章を書く時だけはおしゃべりです。なんでだろう、と思っている。
伝えたいことがあってはじめたYouTube。そこでもうまく喋れないのに。
文字を書く時だけ、こんなにたくさん話すことができる。

なぜか?その答えは、たぶん相手にある。

面と向かって話す、その先には明確な相手がいる。その相手が誰であれ、会話の中で、基本的にその人は私の話を聞こうとしてくれる。
YouTubeを見てくれるかたは、マンガの描きかたを知りたくて私のチャンネルにたどり着いたかたが多いと思う。その人がどれくらいの熱量で聞いてくれるかわからないが、聞いてもらえるものだと思って話している。

それに対して、この文章での一人語りである。

もちろん、聞いてもらえたらうれしい。うれしいが、聞いてもらえないかもしれないという思いで書いている。面と向かって話すよりも、YouTubeで目的をもって話すよりも、もっと大勢の「誰か」に向けて書いている。

私がこうやって大っぴらに文章を書く時、その向こうに思い描いている相手はいつも知らない人なのだ。

YouTubeで話す時にかろうじて頭の隅に浮かんでいる「視聴者は漫画を描きたい人であろう」という推測めいたものすらない。
ツイッターもブログも同じだが、誰がこんなつらつらと自分語りをするだけの文章を好んで読むのかわからない。私は誰に話しているんだ。
もともと私は漫画を描く人間で文章を書く人間ではない。
なのになんで、こんなにすぐ1000字あまりの無駄な文字列を生産してしまう?こわい。

ひとつだけ確かなのは、そこに1対1の会話や目的を同じくしたYouTube視聴者さんとのコミュニケーションの間ではあまり存在しないものがある。それは「はじめまして、私こういうものです」という名刺を渡すような感覚である。ただし、名刺交換ではない。名刺を投げつけた後、すぐ踵をかえし走ってその場を去るのだ。その名刺には、名前も連絡先も書いてない。そこに書いてあるのは「美しかった花が枯れた花に変わる、その瞬間を見定める目を持っていたい」といった、ほんの一部のひとにしか刺さらない感覚の話。その感覚に合う人が、わずかな記憶をたよりにまた来てくれたらいいな。そう思っている。
そうやって、訪れた人にまた名刺を投げつける。こんどは3枚。
私はみなさんに、そういう形のコミュニケーションを求めているのかもしれない。

漫画を描く時はわかりやすくしたいし、話し相手がいる時は相手の話も聞きたい、YouTubeでは見てくれる人に何かしらをギブしたい。そんな気持ちで話していて、それはそんな関係性とも言える。

このブログで築きたい関係性を一言でいうならば、両手いっぱいにあふれんばかりの「はじめまして」なのかもしれないな。

 

最初、今回のタイトルを『感想と語彙力のあいだにある、関係性の話』にしていた。

今回はその前振りを書いていたのだが、前置きにしてはずいぶん長くなってしまった。つかれた。今日はここで、おしまい!
今後の記事でこの本題に触れるかもしれないし、二度と触れないかもしれない。要約をすれば、以下のような話だった。

 

わたしは創作者である。マンガやイラストを描いてSNSなどにアップしている。創作者同士の交流の中で、『推し!』『尊い!』といったごく短い誉め言葉の最上位表現のようなものに出逢うことがある。ある作品が、見た人の中で『推し』で『尊い』のだ。それは確かにその通りなのかもしれない。

関係性がすでに出来上がっている中で発せられた言葉であるならば、まさに阿吽の呼吸のようにその言葉だけで通じる何かがあるのかもしれない。
不思議なのは、関係性がまだ築かれていないように思えるひとたちの間でそういった言葉の応酬がされているように見えたことだ。
わたしの感覚がズレているのかもしれないが、本当に尊くて推したいものに対してその短い言葉に気持ちをこめられるのだろうか?と疑問に思う。
自分なら好きな作品こそ言いたいことが山のようにある。その素晴らしさを伝えるために持っている言葉を総動員して、細部まで事細かに感動を表現したいと思うものである。

それなのに、なぜ?と考えた時、今の若い人は語彙力がないから…という言葉で片付けるのは少々雑ではないのだろうか。この情報社会に生まれ育った若者を甘く見てはいないか。

語彙力はあるのだ。それは自分の中にもあるだろうし、スマホを持っているんだから、付け焼刃であろうと感想をいくらでも飾り立てることくらいできる。それをしないのには、きっとわけがあるんだ。

わたしは、その理由が関係性にあると思った。
すでに築かれた関係の中でも、まだ築かれていない関係の中でも、同じ『推し』が『尊い』という言葉が使われる。でも、これはきっと同じ意味ではないのだろう。

これは…誤解を恐れずに言えば、誤解をされないための予防線ではないのだろうか。言葉を尽くすことによって、その人の(あんまり好きな表現ではないが、今風に言うと)地雷をふむ危険性がある。その予期せぬ事故を防ぐための安全牌が『推し』『尊い』であるとするならば。

語彙力をもった若者と、本当に伝えたい感想のあいだによこたわる関係性の問題は大きいと思った。