引き続き、生活史の本を読んでいます。
読み進めるにつれて、自分が勘違いしていたことに気づきました。
事件や事故や災害、あるいはもっと小さなレベルでのできごと。そう言った事実が誰かの口から語られる時、それをその人の感情や意志と切り離して語ることは難しいと思う。
だから感情が入り込む余地のある聞き取りでは、当事者同士でも語ることに差異があるはず。
誰かにとって本当のことが、誰かにとっては全く逆のことかもしれない。
私はこの「間違っているかもしれない記憶」が「記録」として、残されることに違和感を感じていました。
記録として残すなら、客観的な事実だけを残した方がいいのではないか。
その疑問の答えが、この本にありました。
この本で取り上げられている『生活史』は、個人に紐付いているから意味がある。
事実に感情や意志が乗っているからこそ、残す意味があるものなんだなとわかりました。
当然、ひとつの事実に対して複数の視点が出てくる。それらに齟齬が生じることもある。
だから、たくさんの人から聞く。バラバラなものが集まったとしても、それはひとりひとりの生活の歴史であり全部に価値があるのだと。
だから生活史は語り手の生い立ちが大事だし、その語り手がどういう人かが大事なんだ。
そのために聞く。
事実だけでなく、「どういう人」が「どう感じたか」を残すのが生活史なんだと思いました。
この本を読んだおかげで、歴史上の事実だけでなく、それで動いた個人の歴史も大事なんだと思うことができました。
以前、この日記に書く内容を変えたいという記事を書きました。
お役立ち記事だけでなく、ありふれた日常を書きたいと思った。
それはもしかしたら、正しい事実だけでなく、間違った感情も書きたいということだったのかもしれません。事実なら調べればわかる。
でも、私にように生きてきた人間は私しかいないから。
その私が書ける感情はここにしかない。そういう日記にしたいのかもしれません。
改めて生活史のような日記を書きたい。だから、この本の続きが楽しみです。